2013年04月03日

ツイてるかツイてないか

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今朝、早起きしてデスクに向かってたのですが、どうにも切り良く終われないあたりで登校時間が来てしまい、ぎりぎりまで粘って結局学校までは自転車で全力疾走。滑り込みセーフで教室に入ると…

PERUTTU(休講)の文字が…

おいおい先生よ、それならそれで事前にネット通知してくださいや…としょんぼりてたら、教室に残ってた友達いわく、先生はここまで来たんだけど、どうにも朝から体調が芳しくなく、結局つい2,3分まえに断念したらしい…

この次は3時半までゼミも授業もなかったので、仕方なくとりあえず図書館に行き、カフェで一服しようとしたら…

サイフ家に忘れてきた(泣)

こ、これではこの後ランチも食べられないではないか…
もうこれが決定打となり、午後の授業までは帰宅することに。嗚呼、結局往復30分のロスか…まあでも授業がなかったのだから差し引いて1時間得したと捉えるべきなのか…

まあ、そんなみみっちい損得勘定より、晴れ渡る気持ちいい朝の空気を吸いながら運動ができたことを喜ぼうではないか。通学路の陽当たりのよい林の斜面で、長らく雪に埋まっていた土がついに顔を出しつつある姿を見つけてにわかに気分も高揚してきました!


ところで不遇続きの午前の自分を顧みて、「ツイてない」という言葉がまず頭にうかんだわけですが、当然その反対語は「ツイてる」ですよね。おそらくどちらも「(運が)付く」の活用形にすぎないと思うんですが、じゃあつまり、私たちの人生はいつでも「ツイてる」か「ツイてない」かのどちらかってことですよね。ついてないしついていなくもない、という状況はありえないのだから…あれ、でもそれなら「普通(どちらでもない)」状態はないってこと?

もちろん実用の場では、何かとりわけ幸運を噛み締めた瞬間に「ツイてる!」と叫び、とりわけ不運に見舞われた瞬間に「ツイてない」と嘆きます。でも上の理論でいけば、日々のどんな瞬間も、程度の差はあれどツイてるかツイてないかに分類されるはずですよね。試しに、良し悪しをいちいち意識しない何気ない瞬間だって自分にとってツイてるかツイてないかのどっちか、て意識し続けてみると、意外と人生大半の割合でツイてるような気がしてくるのは私が楽観主義者だからでしょうか??

まあひとつ確実に言えるのは、どないな状況もツイてるととるかツイてないととるかは自分次第、ってことですな。

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明日はワケありで5時起き!!




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2013年03月15日

エンパシーとシンパシーの狭間で

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ここのところずっと、人知れず悩み続けていることがあります。特にそれがどんなとはここでは言うつもりはないのですが、毎日は日課とタスクと展望に満ちていてとても楽しく充実しているのだけど、それでも満たされないモヤモヤとした気持ち、生きてたらまあ誰にだってありますよね、ひとつやふたつ。

今日お昼を食べてロビーでひとり一服休憩していたら、久々に会う友達ヤーッコが通りかかったんです。厳密には「友達の友達」で、その友達を介して以前はやりとりも多かったのですが、最近そういえばご無沙汰だったね…という、心理学専攻の理知的で穏やかな男の子です。「久しぶり」「元気だった?」たわいもない挨拶を交わしたあと、私はふと直感的にこの人に最近のモヤモヤを話して、反応を聞いてみたくなって、ほぼためらう隙もなくいきなりコーヒーに誘い出してしまいました。

喫茶があまりにうるさすぎたので、コーヒーだけテイクアウトして空いてた談話ルームでしばらく対話したのですが、「今この人に話さないと」という直感はさすがなもので、結果ほんとうにこのタイミングでヤーッコと話が交わせてよかったと、心底思えたのでした。

極めて個人的で、正直自分でもはっきりとつかめていないような微細な心理をフィンランド語で伝えるという能力は、日々の友達とのたわいない会話やディスカッション、学校・仕事生活ではそう培えないものだし、未だやっぱりあまり得意ではなくて、ゆっくり考えながら、自分と対話しながらぽつぽつと言葉を紡いでいくのが精一杯でした。このじれったさは、しゃべっている相手によってはときどき、同じ事を話そうにも途中でうんざりしたり、あるいはパニックになったりで、まともに自己表現ができずに返って鬱憤が蓄積されてしまうこともあるなか、ヤーッコの真剣だけれども何も急かさないしゆとりを与えてくれる、絶妙な目つき頷きの間に救われて、久々に的確な言葉にならず堆積し続けていた胸中を(フィンランド語で)吐き出して、それだけで幾分すっきりできた気がしました。

で、さらに、彼の(さすが心理学専攻といいますか)巧みなレスポンスに感銘を受けるのです。

「僕はアヤナと同じ経験をしているわけではないから、その難しさやしんどさをそのまま共有する事はできない。でも僕にも、かつてこんな…似た経験があるんだ。だから、少なくとも僕はアヤナの今の心境に"eläytyä"することはできるよ。きっと、すごくつらいんだろうなと思う。」

eläytyäという動詞、フィンランドに暮らして1年半余り、一度も聞いたこと(気に留めたこと)なかった単語で、いいシーンなのに思わず意味を聞き返してしまいました。。。

eläytyä= empathize 名詞にするとエンパシー。

この言葉と併せて浮かぶ言葉が、sympathy シンパシー(フィンランド語では)myötätunto。
外来語としてのシンパシーとエンパシーって、結構混同している日本人は多いのではないかと思います。けれど、心理学とかコミュニケーションの分野では、その本質や相手への影響力の違う概念として対比されやすい2つの言葉です(私自身はこれらが専門でもなんでもないのですが)。

大雑把に言うと、シンパシーは「共感、同情」。つまり、あたかも自分が相手の心情を理解し、同じ気持ちに染まった気になる(あるいは同じでないと、と無理に染める)「なりきり」。あるいは、「あっこの人私と同じだ」という知っているにおいに対する「飛びつき」。「人はみんなわかりあえる」という前提のなかで、感情的・直感的に心が振れるニュアンスが混じっている。震災後に、被災者でもない人が間接的に心を痛めて欝になりがちだったのも、シンパシーゆえの心の染め上げだったといえるかもしれない。

エンパシーも「共感」ではあるのだけど、「自分と同じ/自分も同じ」という発想がない。自分とあなたは、残念ながら違う人間で違う境遇にあり、違う心情にあるのだから、ありのままを共有してわかってあげる事はできない。けれど、(近い経験や価値観から)想像してみることで、その距離を理解し、縮める努力をすることはできる。つまり、「人はみんな違う」という前提のなかで、それでもきっと相手はこんな感じなのだろうと精一杯の想像力を及ばせて寄り添ってあげようとするニュアンス、でしょうか。


自分だけが傷ついたり不遇にあってすごく心細いとき、他者からエンパシーとシンパシーどちらの働きかけをしてもらうほうが救われた気分になれるか、想像してみてください。

私自身が、エンパシーなりシンパシーを「持ちかけられる」側(つまり社会的弱者のほう)になった(とダイレクトに自覚するようになった)のは、明らかにフィンランドにやってきてからです。どれだけ社会に馴染んで、適応して、心地よさを覚えても、やっぱりここでは自分がマイノリティであることを、ふとした瞬間、ふとした場面で幾度と無くつきつけられる。とりわけ、日本人とフィンランド人はいろんな面で「よく似ている」と言われなんとなくそう自覚しているからこそ、思わぬところに「似て異なる」擦れが潜んでいて、それに大きく傷つけられたり裏切られたりすることがある。

私とあなた達は似ているようで違う。どれだけ私がフィンランドを愛していても、「フィンランド化」していっても、私は私。日本人としての魂を売るつもりはないし、とにかく眼の前の環境に馴染もうとすると、一見適応できたように見えても心がこっそり疲弊していた、ってことも何度も経験済み。そんな微妙な差異に苦しむ立場にある時、いわばその差異ゆえに私を苦しめている相手から軽々しく「私達もその気持ちわかるよ」「そういうの辛いよね」という、さも自分とあなたは感じ方は一緒です、心はひとつです、という「同情」を強調したフォローをもらうと、(本人たちはもちろん慰めていたわってくれているのは重々承知ながらも)、大雑把過ぎるというかむしろ「アンタちっともわかってねーよ!」という気分を駆り立てられたりもする。

いっぽうで、「私とあなたは似ていても、違うから、そのままわかってあげることはできない。でもわかってあげられるように、精一杯想像する。努力する。」という姿勢で寄り添ってもらうことは、「所詮他人なんで」という姿勢でありながら、むしろ孤独で凍りついていた心が一気に融解するような気持ちになることを、今日身を持って知りました。このことは、臨床心理のハウツーとして知ってはいました。ただこれまでは、「だから、社会的弱者の気持ちを想像して、不快さを生む隙間を埋めてあげる努力のできる人になりなさい。(それこそが何においてもデザインという行為なのです)」という逆の立場からの教えを受け続けてきていたので、それに自分の心が救われるなんて…正直とても新鮮な感覚でした。

そう、そうなのよ、自分と他者の違いは絶対に存在するし、埋まるものではない。「分かり合える」なんて響きはいいけど嘘っぱちなんだ。でも、正直に違いを認めることができるなら、その溝をじっくり擦り合わせていけるきっかけになる。両者にとって心地よい妥協点を見つけていける希望が見出だせる。それがコミュニケーションというもの。

渡航以来ずっと考えていました。なんで身の回りには、自分のフィン語脳力如何にかかわらず「話しやすい人」と「そうでない人」がいるのかと。そしてやっとわかった、自分自身が集団内で特別扱いされることを嫌がっていたくせに、実はその「違い」を自覚してケアしてくれる人にすがっていたのだという事実。

この気付きを、今後どこまで自分や周りの幸せのために還元していけるでしょうか。


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一週間がはやいなあ。。





posted by こばやし あやな at 09:41| Comment(2) | Suomiで考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月23日

森なのか、木の畑なのか

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数日前に紹介した、現在ユヴァスキュラ市立美術館に来ている企画写真展「Kultainen metsä(親愛なる森)」展、実は本日学芸員のガイド付き鑑賞ツアーが無料で開催されていたので、ありがたくもう一度タダで鑑賞させてもらいに出向いてきました。集まってきた人の数は、ツアー主宰者にとっても想定外の多さだったようで、決して広くない展示室を、鑑賞者の邪魔にならないよう大人数でぞろぞろ移動しながら、声を張り上げるガイドさんの話に耳をそばだてて…という感じ。

ガイドを務めていたのは、普段受付にいらっしゃる一学芸員さんだったのですが、自身が研究や制作をしたわけでないにせと、ほとんどカンペも見ずに、よくもここまで深い理解に基づくお話が快活にできるなあと感心してしまいました。例の日本の神道の概念や神社の各部の意味、巨木信仰などについても、当の日本人よりよっぽど的を得た表現で誤解なく翻訳されていて、こちらがなるほどと勉強になったくらいです。日本の話をするたび、「…でいいかしら?」となんとなく何度もこちらに目配せしてきていましたが(笑)

私自身、前回見た時はやはりこの日本のフロアに釘付けだったので、実はフィンランドの森のフロアについては、ただ写真をざっと眺めて雰囲気に浸っていただけでした。けれど今回、頼れる解説付きで見てまわることで嗚呼なるほど…と知識・感覚ともに一新できたのは、フィンランドフロアでのことでした。ここはさらに「手つかずの天然林」と「産業としての森」という2つの撮影地別セクションに分けられています。


フィンランドが「森林大国」であることは言うまでもなく周知の事実。国土の70%あまりが森林域だと言われます。けれどそのうち、本当に人間の手つかずである天然林って、最新のデータではもう1%しか残っていないんですって。もちろん、人の手が入っていると一口に言っても、その程度にはかなり差異があります。いわゆる産業目的の完全な植林から、日本の里山のようにわずかに人が手を加えて手入れすることで返って状態が良好に保たれる、というエリアまで。けれどやはり99%のうち大半は、とりわけ1960年代ごろから国をあげての一大工業として急成長を遂げた森林産業振興のための「人工林化」の結果です。

「松林」「白樺林」というのは、聞こえや見栄えはよさそうで、実はとても人工的なにおいのする言葉。やがて効率よく伐採するために、同じ種類の同じ年齢の木を人が「育てている」にすぎないわけですから。学芸員さんはそれを「木の畑」と呼んでいました。なるほど(笑)

いっぽう本来の豊かな天然の森というのは、さまざまな樹齢・樹種の木々が混在し調和する環境下でさらに多種多様な生命がはぐくまれ、奇跡的なバランスで生態系が保たれる「多様性」に支えられた森のこと。決して肥沃とは言えない、厳しい環境下にあるフィンランドの天然の森で育つ松の木の寿命は、せいぜい200年。ただし種が宿る瞬間にはじまって、やがて徐々に白骨化し、倒木してしまうまでの過程をすべて含めると、松の木1本のストーリーは800年に及ぶそうです。
ところが、少しでも人の手に委ねられてしまった森(と土地)は、飼いならされた動物と同じで自立心を失ってしまい、とてもそんな悠久の命をまっとうすることはできなくなってしまう。実際、伐採用の計画植林の森のサイクルはわずか20年で、しかもその伐採を終えた土地には、もう2度と豊かな森は蘇らない。もしそのまま人が再度手を付けなければ、荒廃の一途をたどるのが運命なのです(植林後になんらかの事情で放置された土地の荒廃は、今国内でも深刻化している)。


実はそんな現状にやんわりと警鐘を鳴らしている…というよりは、「まあ、なにを感じるか、どう感じるかはあなた次第ですが…」というアートお得意のスタンスで、その事実を淡々と作品で見せているのが、最後の「産業としての森」のセクション。
一見して、アート(あるいはテキスタイルデザイン)のように規則性を持って眺めることができる森の姿…それはすべて、人工林の航空写真を素材としたもの。たとえば国内を列車移動しているあいだに何気なく眺めている、延々と続く単調な森…あれらはああして横から見ているからいかにも「森」であって、ああ今自分は森の国フィンランドにいるんだなあという旅情さえ与えてくれるわけですが、真上から見ると、ぎょっとするくらい「作られた姿」を呈しています。直線的な用水路や移動路でぴしっと区画されていて、ちょうど棚田や茶畑のよう。まさに森と言うよりは「木の畑」。
あるいは、フィンランドには国民誰もがどこの森から(ベリーやキノコなど)何をとってもよいという平等な自然享受権が保証されていることはよく知られていますが、まさにその「自然享受権」というタイトルを冠した連作で写されているのは、切り株だけが無残に残った湿地、すべての植物がむしり取られて丸裸にされた更地ばかり。

ガイドツアー参加客の一人が、最後に質問やコメントを求められた時に「私、これまでの人生、この「木の畑」を歩くだけで十分満足して、森を満喫している気になってたわ…」と困惑した顔でつぶやいてらっしゃいました。

ガイドさんはおもしろい調査結果についても話されていました。フィンランド人に、「あなたの住まいから、「森」まで、歩いて何分でたどり着けますか?」という質問に対しての解答は、年々その分数が縮まっているんだそうです。「木が存在する場所」自体は今も昔もそんなに変化はないはずので、この結果は、人々にとっての「森」というものの定義や価値観が変化している証だといいます。最近では、木の生い茂った公園でも十分「森」とみなす人が増えているのだとか。


木の畑こそが現在の「森と湖の国フィンランド」の典型的な景観を保持しているのは事実。天然林も木の畑も同じ「森」とみなしてよいのかどうか、森林産業は正義なのか悪なのか…その価値観に正解や良し悪しはなく、言ってしまえば結局人それぞれです。あるアートと出会ってどんな世界を覗くことができたか、どう感じたか…という個人的経験と同じことです。

少なくとも、多くの鑑賞者が最後のこのセクションで「戸惑った」経験は、多かれ少なかれ、その人の人生にあらたな視点や考察のきっかけを、深みを与えるはず。まさにアートの思う壺であります。

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明日はお待ちかねユヴァスキュラ美食同好会の2月定例会〜♪

posted by こばやし あやな at 07:59| Comment(0) | Suomiで考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月22日

「たゆたう」の考察

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なんだかんだで、薄雲が退くことはなかったものの今日もお日様の軌道を目視しながら、平穏にすごせる一日でした。スケジュール的には平穏どころではとてもなかったのですが…

さて、昨日の記事に対して「湖がたゆたう」という表現はおかしいのではないかと意見を求められるコメントをいただきました。私自身も半分はなるほどごもっともと思いながら、もう半分は本来の意味解釈+以前からの自身の感覚に基づく動機があっての意図的な表現でして…という弁解の思いもあり、改めて、なぜ自分にとってこの表現がそれほど不適切に感じてこなかったかを、先ほどから頭で考えなおしているところです。


たとえば、「たゆたう川」「たゆたう海」という表現には、私自身も強く違和感を感じます。それに対して、普段そばで暮らしながら目にしている「湖」については、なぜか個人的にしっくりきてしまう「たゆたう」という表現。おそらく前者たちは、いつでも規則的に流れるべき方向むけて流動しているから。逆流はまずありえないし、そこからの勝手な見方というかレトリックに過ぎないけれど、川や海の動きには、絶えずこうあるべきという目的意識や意思が感じられる。その流れのなかで、むしろ船や島を「たゆたわせる」存在。

それに対して、どこにも目標地点がなく、今はこっちに波打つべき、といった意図や意思も感じられない湖という存在は、外的環境に誘われるがまま、不動の大地の狭間をあぶくのように無目的に浮遊しているように、私の目には映ります。風が吹けばにわかにそちらへなびくように波立ち、ある瞬間は鏡のように町や森の形状を写し取っていたり。確固たる流れがないからこそ、冬が訪れたら真っ先に凍結してしまうのも湖。

「たゆたう煙」という表現を文学作品でもしばしば見かけますが、私の中では湖もその同類のような気がしています。かろうじて実体をもちながらも、まわりの刺激の中でそれ自体がいたずらに揺れ動いたり色や様を変えていく、そんなふう。たゆたうものは、本来それ自体がソリッドである必要はないはずです。広辞苑にも「かなたこなたへゆらゆらと動いて定まらない。ただよう」様とあるので、意味合いの解釈自体に大きなずれはないと思います。

ただおそらくそれでも一般的に違和感が残るのは、単純にそういう用例の前例がないという点と、湖自体は常にゆらゆら揺れ動き水位も変化させてはいるけれど、その外枠の形状や位置を変えて移動しているわけではない、という点でしょうか。これはごもっともで、湖を上空から見てる分には流動も何もないだろって話ですが、たぶんこの視点は湖畔に暮らしているとちょっと変わってくる気がします。

ほとりの森の安定した地面の上に立って、地上との境界もあいまいに風にさらわれ優柔不断に揺れ動く湖の姿を眺め続けているうちに、「ただそこで生かされているんだね」という同情心のような、そしてまた共感のような不思議な感情が心に宿ります。きっと湖に対するこの感情、このイメージがわたしの世界での語源を生んだのだろう、と改めて気づかされました。


私自身が反省すべき誤解もあって、「〜にたゆたう」「〜でたゆたう」「〜をたゆたう」…最初のが一般的だと認識しながらも、後者二つに対しても、正直そんなに違和感を感じなくて、その文その文で語調を整えるために無意識に変えて使っていたことです。
まあこれも、「〜に」じゃないといけない、という辞書的定義はなさそうですが、「〜で/〜を」といってしまうと、「ようし、ここで/をたゆたうぞ!」という意思の芽を感じさせて、なんだか本末転倒になりますもんね…。そう考えると、「〜にたゆたう」って、どこまでも従属的というか、主体性を消し去ってしまった表現。「たゆたう人生」なんて、耳にはなんとなく心地よく聞こえるけど、ある意味でなんだかすごく悲しい描写なのかもしれませんね…。


…さて、日本語への逃避はここまでにして、そろそろレポートに戻りませう…(o_o)

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夏の湖の写真を引っ張ってきたら、恋しさがつのってきゅんとした…

posted by こばやし あやな at 02:17| Comment(3) | Suomiで考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月02日

ここから、の日

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物質的生産性は何ひとつなかったけど、今日を経て明日からの自分が変わってゆく(きっと良い方向に)、という、根拠なき小さな自信のもてた一日。この根深い雪が溶ける季節には、ふと振り向いて、あぁあのときちゃんと軌道修正できたんだなあ、よかったなあ、と感謝できる日でありますように。

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アップルマフィンを焼きすぎてちょっと困ってる。あ、今日生産したものもちゃんとありましたね。

posted by こばやし あやな at 04:24| Comment(0) | Suomiで考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月25日

納得の呼びかけ

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我が家の窓辺では今、ラップランドのトナカイと奈良の鹿が仲良く共存中です(笑)

さてさて、おかげさまで引き続きなかなか忙しくさせてもらっております。
取材関連で刻々とやって来るメール対応に追われている段階ですが、私自身の資料管理のために、重要なメールなどは印刷してストックするようにしています。

ところが、フィンランドといえば!のとある企業の担当者さまとのやりとりのなかで、商談成立の証拠メールをいつものように印刷しようとしたら…

Please consider the environment before printing this e-mail. Thank you.
(このメールを印刷する前に、どうか環境のことを想ってあげてください。ありがとう)

という一文が、文末にさりげなく。


ここはまさに、環境対策を全面的に打ち出していることで有名な企業ですが、こんなところにまで相手の心理をついた細やかな呼びかけをしているなんて…と、小さく胸打たれ、ますますこの企業のことが好きになってしまいました。印刷、もうやめとこ。

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週末もバリバリと頑張る!





posted by こばやし あやな at 20:31| Comment(2) | Suomiで考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月15日

1kg10円で買えるジャガイモ

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今朝、登校前に地元のネットニュースをざっと読み流していたら…

Kampanja romahduttaa hinnat: Kilo perunaa kymmenellä sentillä, jopa maksutta
(価格破壊キャンペーン:ジャガイモ1キロが10セント、無料商品も)

ソース記事はこちら


という衝撃的な記事が!!
丁寧に読む時間はありませんでしたが、どうやらイモを始めとするさまざまな国産食材が、いわゆる生産者価格で販売、一部無償配給されるキャンペーンのようで、ユヴァスキュラだけでなく、本日国内の各都市で同時展開されるもよう。ユヴァスキュラでは中心街の待ち合わせ名所「kompassi」の角で11時に販売スタートとのこと。あああっ私11時45分まで授業だよ〜〜〜涙

とにかく、万が一まだ売れ残りがあることを期待しつつ、午前の授業終わりでチャリに飛び乗りセントラルへ直行。おおお、現場に到着すると、狭い歩行者天国十字路に見たこともない長蛇の列が…!どうか私の手前で売り切れなんてなりませんようにと願いつつ行列に並ぶこと10分あまり。ようやく販売テントまでたどり着くと、さすがに無料商品やお肉などはすでに売り切れてしまったようでしたが、目玉にもなっていた1キロ10セント(=約10円)のジャガイモパックは、まだかろうじて残っていたので、お賽銭同然のコインをチャリンと缶に入れて、無事一袋受け取ってくることが出来ました。


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そういえばちょうど冷凍庫に先日安く買ったサーモンの切り身が残っていたのを思い出し、せっかくだからランチは学食はパスして、家でジャガイモたっぷりサーモンスープを作ろうと思い立って、そのまままっすぐ帰宅。ところが家で改めてパッケージを見たとき、ようやくはじめて、このキャンペーンの真意を知ることとなりました。

このパッケージが消費者たちに提起していたのは、「1kgあたりのジャガイモの価格は平均75セント。このうち、税金が9セント、工場やお店の収益が54セント、つまり生産者の収益はわずか12セントに満たない。なぜ、この商品にもっとも多く手をかけたはずの生産者が、もっとも低い収益しか得られないのか?」という点です。1kgものジャガイモがわずか10セントで売られていたのは、まさにその生産者価格だったというわけです。

これは実際、フィンランドの物流市場で起きている(そして誰もが少なくとも認識はしている)、明らかに不条理なのに簡単には覆しようのない現実です。生産者と消費者の乖離(小売店の台頭)は、もちろんフィンランドに限った現象ではありませんが、とりわけこの小さい国の小さい市場では、総合的なスーパーマーケットでしか安定してものが売れず、市場を席巻する勢いとパワーをもった巨頭ブランド経営下のお店以外では、(とりわけ地方都市だと)まったく太刀打ちできないのです。

ヘルシンキの港やハカニエミ地区にあるような、いわゆる屋外マーケット/マーケットホールというのは、実際大きな街でしか見かけないものですし、普通規模の街の街角では、肉屋や、魚屋や、八百屋さんはほとんど見かけません。国産であれ輸入品であれ、すべての生産商品は卸売業者を通じて大手スーパーにばかり集められ、都合よく低価格で販売されてしまうので、結果的に生産者の利益はあがったり、というわけです。


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渡フィン前に、日本屈指の商店街が元気な街、高円寺に一人暮らししていた当時は、「肉は肉屋で」「野菜は八百屋で」買うというのが日常だったし、行きつけの近所のお店には、まさに生産者たちが、自分たちの収穫物や製造品を直に安く売ってくれるところが多かったので、どこの街に行っても同じロゴの総合店しかなく、顔も見えない誰かの生産品を黙々とまとめて購入するだけのフィンランドの買い物生活って、楽だけどなんかつまらんよなあ…と、今なおよく痛感します。

ましてそんないち消費者が、顔がまったく見えない生産者のことを思いやるというのは、なにかきっかけでもない限り難しい話。今回のこのキャンペーンで、このパッケージをみてはっとした人、やはりこの状況はまずい、と危惧した人は多かったはず。我々に何ができるか、それは実際問題とてもむずかしい話ですが、幸い私の住む街には、なんと1920年代から営業を続ける老舗の魚屋さんもあれば、郊外には肉の直接販売をしている牧場も結構ある。もちろんこうしたお店の商品はスーパーに比べて決して安くはないけれど、間違いなく美味しいし、安心できるのは確か。
お財布と相談しながらではあるけれど、今後も出来るだけ、この国の厳しい環境下の大地で頑張ってくださっている生産者の皆さんとの距離を、できるだけ縮めていける暮らしを心がけねば…と、改めて誓った次第です。

ayana@jyväskylä.fi


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スープにしていただいたジャガイモ、煮崩れもせず、噛むとほんのり土の味が香ってとても美味しかったです。残りのジャガイモで、週末には久々に肉じゃがでも作ろうかな。

posted by こばやし あやな at 04:29| Comment(2) | Suomiで考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月12日

母国語の文法をめぐって

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父の日も前倒しで収めて、今日という日は、もう稀に見る何もなさ、というより何かをする気のなさから、朝から晩まで、ただひたすら狭いマイルームの机の前に身を固めていました。

休日の雨と灰色の空に、私からひゅるひゅるとやる気を吸い取っていってゆかれた気分。昼ごはんを食べた直後から晩御飯が待ち遠しくなり、午後三時頃に我慢できずに一度シャワーを浴びに行ってしまう、なのに外に出たり何か作業に手を付ける気には一切なれない、この病的な倦怠感はいったいなんだったのだろう…。日光浴不足ごときでこんな異変が起こるはずない、と、北国に暮らす以上普段からそのファクターだけは度外視するように生活してるんやけど(だってそれを意識すると、ああ今年もこの時期が来た…と何より精神に悪影響を与えそうだもの)、精神論でもなんでもなく、いよいよほんとに太陽不足が直接身体に作用しているのかもしれない。ビタミン剤だけでも真面目に摂取したほうがよいのやら(でも去年はそれなしで普通に乗り切れてたではないか!というマインドBが水を差してくる…)。

今日唯一成し遂げた「人様のお役に立ったこと」といえば、同居人アンナの日本語クラスの文法宿題の質問に答えてあげたことくらい。私は大学で言語学の専門勉強をしたわけでもなければ教師の資格があるわけでもないけど、「日本語文法」を理論的に、わかりやすく、そして楽しく!他人(日本人でも外国人にでも)に教えることにかけてはちょっとした自信があります。大学時代に、某進学塾で国文法の授業を担当していた経験が直接的にはベースになっているけど、その素地はまちがいなく、自分自身が高校受験の時にお世話になった塾の現代国語のT先生から学んだことがすべて。

読解問題は、正直いくらでも人によって解釈の幅があるものだし、正答率を高めることは小手先の受験テクニックを磨くことにすぎない。でも文法は、必ず答えに絶対的な理由が伴う、いわば数学と同等に明快で厳格な法則さをもっているということ。だから、絶えずあらゆる文章を構成する語すべてを品詞分解して、人に説明できるようにならなければいけない…と毎時間、本当にそこここからの抜粋文章で、現国・古典ともに徹底的な口頭での品詞分解トレーニングを積まされたものでした。その難行苦行の記憶…というより学びのプロセス、そして先生から譲り受けた鮮やかな知識整理法が、今でも脳にしっかり張り付いています。主語のあとの「が」と「は」のニュアンス違いだって、ちゃんと理論的に外国人に説明してあげることは可能なのです。

今でこそ文系街道まっしぐらの私ですが、大学受験までは国語社会より数学理科のほうが圧倒的に点数もよく、モチベーションも高くて頼みの綱の教科たちでした。単なる暗記でも自己表現の数値化でもない、ルールを理解して使いこなしさえすればひとつの答えにたどり着く、という公正なプロセスが、勉強する意義や手応えとしてまだ一番納得がいったからだと思います(ちなみにセンター国語はなぜかどんなに最善を尽くしても常に6割がせいぜいで、当日も端から期待すらしてませんでしたww 記述メインの二次になるととたんに形勢逆転するのに)。そんな憎き国語教科の中でも、文法問題だけは、先に述べた理数科目のプロセスや悦びに近いものが味わえるので好きだったんですよね、きっと。でもあのT先生のもと理論だった講習を受けていなければ、そのおもしろさには気づけていなかっただろうなと思います。

ちなみに、フィンランド人一般市民は(もちろん「私の知りうる」世代や学歴の、にすぎませんが)、母国語の文法について、前提知識のない外国人に教える行為が、ちょっと唖然とさせられるほど下手くそです。ええ非難覚悟で、そう言い切らせていただきます。それなりに優秀な大学の現役学生である友人たちにもこれまで数多く質問をぶつけてきましたが、彼らはいつも、帰納的にとりあえずたくさん例を言い並べて、「ああだから、こうだから、、、だからきっとこれもこうなる」というあやふやな言い方でしか、自分の使っている文法を説明できないのです。以前からどうもそのことでやきもきしていたら、ついにフィン語クラスの先生たちも口をそろえて「言語学を専門にしている学生以外のフィンランド人に、文法説明を求めてはいけない」と言い放つ始末(笑)

例外やは多いし細分化すると変化パターんもきりがないけれど、フィンランド語にだってもちろん確固たる文「法」はある。母国語を何気なく喋るのに文法をいちいち意識する人はいないのだから(我々ですら会話中では過度に意識していてはとても会話が続かないし)、ならばそれをすべて完全に人に説明出来る必要はないのかもしれない。
ただ、どうしても私としては、「母国語」の高等授業の中で、我々が何気なく使っている言葉の成り立ちや規則性を客観的に捉え直す作業、誰かに説明してあげられる能力育成は疎かにすべきではないでしょう、という歯がゆさがぬぐえないもので。文法体系って本来、専門家だけが知っていればよい高尚な話でもなんでもなく、我々の先人たちが聢と築いてきた、もっとも明快で誇れる自国文化のひとつでしょう?

とまあ、一日ぬべーっとだらけて過ごしてた者には似つかわしくない小言モードになってきたので、いい加減このへんで。私個人としては、この国の身近な場所でマイ母国語の学習者たちに頼ってもらえて、「アヤナの教えてくれる日本語はすごくわかりやすいし、自分がフィン語を同じように人に説明してあげられないことを恥ずかしく思うよ…」という言葉を返してもらえることに、日本出身の誇りみたいなものを一瞬素直に感じられるので、それだけでも十分幸せです。

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明日の晴れ予報に期待を込めて


posted by こばやし あやな at 06:18| Comment(1) | Suomiで考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月24日

初雪/同胞の結婚祝いをめぐって

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今朝起きると、夜のうちにいよいよユヴァスキュラの街にも初雪が舞い落ちたようで、地面がうっすらとナチュラルメイク(「薄化粧」をあえてカタカナで記してみたら、見事に趣きを失ってしまった…)。もはやお菓子の上に降りかけた粉砂糖くらいの微々たるもので、お昼にはほとんど溶けきっていましたが、これにて名実ともに今年も冬がやって来たと言えるでしょうか。
今週は後半から週末にかけてさらに冷え込むらしく、予報では終日氷点下が続くそうです。いつからダウンジャケットに切り替えるか、悩ましいところ。


話がまったくもって変わりますが、先週末には、かなた京都で大学オケで4年間一緒にビオラを弾いた同胞の一人の結婚式が挙行されました。揃いに揃った、まったく違うタイプの奇人・変人・アナーキスト・社会不適合者同士ながら、不思議と釣り合いがとれていたため、未だその結束は固いビオラ同僚7人。うち、私と、別の結婚式の先約があったもう一人は今回参加できなかったのですが、残りの4人は各地(ほぼ関西圏外)から駆けつけたようで、今日披露宴の写真と簡易報告をいただきまして、幸せ絶頂のきらびやかな新婦の姿と相変わらずな参列組のとぼけた姿を見ながら、さきほどまで(遠距離)友愛の安泰さと若干の寂しさに感じ入っていました。

式には参加できなかったけれど、その直前までウェブ会議にはもちろん参加して、ビオラ同期恒例「世界にひとつだけの結婚祝い」を何にするか、今回も皆で知恵を出しあいました。過去にも、香川出身F氏にはかつてパート練習前に通いつめた大学構内のうどん屋さんで使用されていた丼、箸、湯のみ、湯がき器、看板とまったく同じ品を難波道具屋筋で買い求めてペアセットにしたものを、地主というあだ名で呼ばれていた彼女にはシンプルに米俵一俵(※一俵=60kg,俵は職人が編んだ本物の稲わらを使用)を連盟で送るなど、互いのことを知り抜き、どんな度を超えた冗談も迎合する信頼感で結ばれた仲間内ならではの、こだわりの結婚祝いをチョイスしてきました。

今回めでたく入籍した彼女の不変のあだ名は、(旧)姓の子音が同じ配列(KND)だからという明快な理由により「ケネディ」。ええ、プレゼント選びのコンセプトは議論するまでもありません。我々はしばらく、J.F.ケネディの生涯と業績、愛用品、趣向、エピソードなどを徹底的に調べあげたのですが、とりわけあまり縁起のいいものが見当たらず、決定にはかなりの意見交換の時間を要しました。

最終的に、ややターゲットをゆるめて「アメリカ大統領」の栄光を感じさせるものを…という観点で選ばれたのが、ホワイトハウス御用達の某食器ブランドのテーブル食器ペアセットと、残った予算を現金支給というのはやましいので、商品券の感覚で時と場を選んで使ってもらえることを期待しドル札に換金して同封。

しかも、現役時代から製本の神と崇められ、頼まれたら他人の楽譜までぴちっと製本してくれていたびおら随一の器用者F氏が、市販の祝儀袋をベースに、こんなにハイクオリティなお手製祝儀袋(内袋つき)まで作成してくれたのですバッド(下向き矢印)

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彼の製本楽譜を彷彿とさせる、端々まで行き届いた見事なクオリティ…ちなみに会計報告によると、我々の共同出資費用の一部は、星型パンチ購入代にも充てられているそうですが、もちろん誰も文句はありません。


とまあ今も昔も変わらず真面目にくだらないことばかり追求し続ける我々ですが、来夏には少なくとも女性陣からも3人めが式を挙げることが決まっており、すなわち、女性陣のなかでは私が唯一の未婚者ということに…いやはや。私にだって「良いタイミングがあれば、いつかは」程度の結婚願望はあるけど、その程度の願望と覚悟でぱっと実現させるようなことではないですね、わかってます。

でも、昔の仲間がこんなに自分のために頭ひねって祝いの品を考えてくれて、どこからでもハレの日に駆けつけてくれることを思うと、式はどこかで開催しないとね(笑)といいながら、これもまた私には世の女性たち並の意欲や憧れが著しく欠如している、というのが実際なのですが…。うちなる理想は、参列者に「着衣が容易な服装とバスタオル持参」を呼びかけての、湖畔のサウナdeお披露目パーティです!!
…て、さすがにだれもフィンランドの湖畔までは来てくれまいか。

ま、この「アラサー問題」は結婚という一ベクトルだけから真面目に考え始めると、潮流に乗りきれない呑気な自分が虚しくなるだけなので、当面は己のペースで、人生をトータルコーディネートしてゆくことに力を注ぐとします。どうせ高校のビオラ同期のほうはまだ一人しか結婚してないしw

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ケネ、あらためて結婚おめでとう!


posted by こばやし あやな at 07:52| Comment(0) | Suomiで考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月22日

太り始め

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「母さん…ボクのパンツが洗濯カゴに残ったままじゃないか…」


…すみません。

タンペレ訪問記はひとまずさておき、先ほどミッコとスカイプしてたときに、日本語クラスの課題で読んで消化してゆかねばならないのだけれど、どうにも理解に苦しむという部分のプリントを見せてくれました。

見れば、それは「太っている」のさまざまな言い方に関する項目。マンガ会話の中で、「ぽっちゃり」「ふくよか」「ぶくぶく」「デブ」…などの言い回しがたくさん折り込まれています。ただ、ミッコいわく、

「日本で、そもそも普通より太っていると自分の目に映る人(とりわけ女性)を見たことがない」

とのこと。まあ…長年フィンランド人女性ばかりが視界に居たことを思えば、その基準の互換性は確かに難しいかもしれない。。。笑

私たちが感覚的にぽっちゃりと判定する女性は、おそらくフィンランドではごく標準と(あるいは健康的とさえ)みなされるであろうし、それより先のレベルやニュアンスを細分化されても、欧米人たちにはいまいちピンと来ないのは当然なのでは?と思います。ちなみにある統計では、日本は世界基準で「肥満」と診断される人の割合は先進国の中でも群を抜いて少ないのに、ダイエットしなければならないと感じている人の割合は世界トップらしいですよ。だからせめて、相手にそれを言ってどう受け止められるか(傷つける度合いが低いか?)だけきちんと覚えておきなよ、とだけアドバイスしておきました(笑)

ちなみに、いわゆる「ガリガリ」はフィン語では「kukkakepi」と言うそうな。これ、実は鉢植えにぐさっと立てる植物の支え棒のことらしい(笑)同じ例えるにしても、細長いものって他にいくらでもあっただろうに、よりによってなぜあの支柱からのネーミング…?

さらにちなみに、フィンランド人男性はほぼ全会一致で(いわゆるフィンランド基準の)標準体型(もしくはそれ以上の肉付き!)の女性を好むそうです。つまるところ男性の理想的な女性像の国別価値観が、その国の女性の標準体型や理想体型を生み出してしまうのではないでしょうかねえ。日本人男性も、もうちょい大目に見てあげて無理なダイエットに苦しむレディを解放してあげてね。

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週明けを迎えるのが憂鬱なサンデーイヴニング…



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