2014年08月27日

我慢で成り立つ子育て社会

20140826_1.jpg

今日、ツイッター上で在フィンママさん達による「日本は外出先での授乳も厳しいし、赤ちゃんは泣くのが当たり前に気を使わなきゃならないのが大変」…という意見を見かけました。「公共の場での授乳行為」の良し悪しという点についても興味が沸いたのですが、一昔前?に日本で物議を醸していた「赤ちゃんの泣き声と公共性」を巡って、母親という立場を経験したことのない私自身が、これらのことに対して日々正直に思うこと/わきまえていることを書き留めておきたいなと思い立ったので、考えるままに筆を走らせ…いや指を走らせてみます。たくさんの方があの告発事件をきっかけにいろんな意見を出していて、私のは今さら目新しい意見でもなんでもないと思いますが、いくつか考えうる意見のうち、あくまで私自身のスタンスはこれ、という表明のために。

本音をいえば、私もこれまで、他人の赤子や子供の止む気配のない泣き声にさらされるたび内心かなり「いらっ」としているし、そもそも赤ちゃんの泣き声自体が、他人の心に生理的な不快感を生むという事実は認めざるをえないと思っています。視覚情報のように目をそむければ自主的に回避できるものじゃないし、赤ちゃんや小さな子供の泣き声というのは言うまでもなく理屈と対極の、理不尽さの象徴音だから、「何事もどうにかすればなんとかなる」という大人の理性のバリアを突き破ってストレートに心を掻きむしられる思いがする。さらに他人の子供は、そもそも自分が率先してどうにかしようと動ける対象にあらずなので、こんなに必死の雄叫びが自分のところに聞こえていても、あくまで自分と無関係のものとして聞き流さなければならない、という一方向性がまた苦行の種になっている気がします。

ただし、このイライラはぶつける矛先がない、という至極当たり前な現実は理解しているつもりです。赤ちゃん本人も、そのお母さんも、攻める対象にあらず…このことについては議論の必要性もないというか、どんな人でも、まったく赤ちゃんの泣き声の聞こえていない今この場所で、赤ちゃんが泣くのは悪か、それを回避できない母親は悪か、といった問いにYesは突きつけないでしょう。
問題は、例の理性のバリアを破って心を掻きむしられる思いのする泣き声から逃れられない密室内で、それでもなお、同じ問いに同じ判断ができる心の余裕を保てるかどうか、です。もうここは誰しも、心に仏を呼び寄せ、いらいらを顔に出したくなる正直な自分をなだめ説得し、かつ余裕があればできるだけ母親が甲斐のないプレッシャーやストレスを感じぬよう「あ〜自分これくらいなんてことないっすよ〜ゆっくりなだめてやってください〜」というオーラを出せるように上手く演じることに徹することだけが要求されているのです。
倫理的に云々…より、その場に居合わせた個々がとっさにその努力のできる「大人」になれるかどうか、この問題はそこにかかっていると思います。

もしこういう現場や事後につい母親や赤ちゃんに対して不快感を露わにしてしまったり、ましてそれを交通機関側の問題に転化してしまうような人を見かけたら、悪人だとはまったく思わないけど、子供っぽいなあ、とは思います。「泣く可能性のある赤ちゃんを連れた外出が悪だ」という理論も、あの泣き声にいらいらさせられた自分自身の過去の経験に煽られ、つい口をついて出てくるのでしょうが、そもそもそういう個人的感情を抜きに考えれば、ある特定の世代の人だけ公共の場(や交通機関)の利用を禁止させようというのがいかに理不尽で反社会的な、子供っぽい(こう言ったら子供に失礼ですらある)アイディアかと気づけるでしょう。

子育てにやさしい国と謳われるここフィンランドでも、バスなんかで赤ちゃんが泣きわめき始めたら、みんな確実にいらっとはしているな、というのはいつもよくわかります。決して誰もが仏のように笑顔で見守っている極楽のような状況ではなく、みなさんさり気なく眉間にしわを寄せながら、時々思わずちらちらと振り返りながら、でもイどうにかライラを飲み込み、母親をまわりの雰囲気で追い詰めてしまわぬよう、平常を装ってやり過ごしています。もちろんその根底にあるのは、赤ん坊や子どもや母親が外出を億劫に感じる雰囲気を作っしまってはいけないという当たり前の考え。誰にだって当然にある外出欲と権利を、制度や設備でなく人の雰囲気で抑制させてしまうのも立派な人権侵害だと心得ているから、多少の「いらっ」もスマートに我慢するのです。それが共生社会の一員としての判断というものです。
というか日本でも、一部の我慢の苦手な人がメディアを巻き込んで言葉にして事を荒らげるから、本来心の底では皆同様の思いを隠しているだけに余計に空気や全体の風潮までがおかしくなるわけで、大半の日本人は上述したフィンランド人同様つい抱いてしまう「いらっ」をうまく隠して、人によっては笑顔でお母さんを安心させる余裕まで持ち合わせながら、そういう場面を事なく切り抜けているはずです。

逆に、我が子が泣き出したときに、つい人目すなわち「まわりへの迷惑」を気にしてしまうお母さんも、もちろん世間の本音に怯えているんだろうとも思うし、そもそも自分自身も、赤ちゃんの泣き声には誰も気持ちいい思いをしない…という実体験があるからこそ、怖気づいている部分もあるのではと察します。極端に言えば、自分が被害者から加害者に変わってしまうような恐怖感。でも、ここはやはり社会の(大部分の)人が当たり前に持ち合わせている「公共性」に身を委ね、周囲に当然のように我慢してもらえばいいと思うのです。
「赤ちゃんのギャン泣きには誰も気持ちいい思いをしない」…これ自体は悲しきかなたぶん真です。でも、世の多くの人は、それを仕方ない、我々が我慢するしかない、とも思っています。なぜなら、ただ単純にそれが公共、あるいは社会というものだと心得ているから。それ以上に「赤ちゃんや弱者をみんなで守り育てる社会をつくろう!」という意欲の強い人は、ありがたくもより積極的に(親身に)その場を取り繕うとするだろうし、そこまで強いイズムがなくても普通は、弱者を精神的に追い詰めることに加担してはいけない、というほぼ無意識の社会性がはたらき、誰しも我慢(+α)という方法でその場を乗り切ります。我慢できない人は、残念ながら悪というより子供なんです。そういう大人が増えているのも事実かもしれませんが、だからといって、そういう自分に正直すぎる人たちの子どもじみた不平不満にいちいち耳を貸したり心を痛める必要はないと思います。

お母さんたちには、どうかいつでも申し訳無さなんて感じずに、ただ淡々と、その場の空気に身を委ねて、それよりも赤ちゃんが泣いて自分に何かを訴えようとしている、そのメッセージを受けとめてあげることに集中してくれたらなと願います。

ayana@jyväskylä.fi


にほんブログ村 海外生活ブログ フィンランド情報へ


市民プールようやく再開。明日は朝ひと泳ぎしてきたい

posted by こばやし あやな at 01:52| Comment(0) | Suomiで考えごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。